つづり

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ユーリ!!! on ICE その他の感想

ユーリ!!! on ICE その他の感想

ユリオのエキシビションが最高だった。とてもよかった。何度見ても見とれてしまう。
このエキシビションヘヴィメタルの文脈で何か意味があるのかもしれないけど、私はそのジャンルに詳しくないのでよくわからない。

いつもいつもペアで踊るのは異性同士ばかりだ。

ゆうりとゆうこは名前の音が似ているなと思って、勇利が優子だったかもしれないし、優子が勇利だったかもしれない。

勇利がユーリにサルコウを教えて、と言ったシーンで、ヴィクトルみたいに全身の筋肉を使って跳ぶんじゃなくて、ユーリみたいにバネと勢いで跳ぶ方法を身に着けたんじゃないか、と言ってた人がいて、体型の違いみたいなものが影響してくるということを初めて知った。

バンケットで酔っぱらった勇利に抱き付かれたヴィクトルを見るたびに、人が人を好きになった瞬間を見たと思う。他の作品だと、ジョジョ3部の花京院が承太郎に助けられたときのシーンは人が人を好きになる瞬間だと思った。

ピチット君はどうやって勇利と友達になったんだろう。勇利はヴィクトル以外はお断りみたいな感じだし、他人に興味ないからすぐ忘れそう。ピチット君は明るくて、楽しいから、相手を不安にさせないからうまくいったのかなと思う。

勇利は1話でひとりだと言っていたけど、自分から他人に話しかけることがあまりなくて、人の顔を覚えてないとかだと、結構面倒くさい人だと思う。あと、勇利は人間の中で長谷津の人たちをのぞくと、画面の向こうのヴィクトル以外は興味ないんじゃないのと思ってしまう。

オタベックがかっこよかったので、カザフスタンを調べたときに、カザフスタンにはグーグルマップのストリートビューがなくて(いくつか写真はあったけど)悲しかった。

このアニメは別の人の視点から見るとまた違った世界が見えるというのが面白い。

怒っている、という感情を伝えるときに、ヴィクトルは色々な方法を取る。4話でアエロフロートを持ち出してユーモアと皮肉たっぷりの言い方をしたり、5話でエッジカバーをリンク壁面に置いてがっかりだよと言ったり、10話で手が震えるくらいの力でユーリの顎をつかんだり、12話のように怒ってるんだよと泣きながら言ったり。

これだけ人の人生に食い込んでくるコーチがいたらいやだなと思うので、ヴィクトルは勇利以外のコーチはしないほうがいいんじゃないかとは思った。ヴィクトルは他のコーチをする気はなさそうに見えるけど。振り付けするくらいがちょうどいいんじゃないだろうか。

LGBTという言葉は四つの言葉がくっついている。男性に惹かれる男性をゲイと言い、女性に惹かれる女性をレズビアンと言い、男女ともに惹かれる人をバイセクシャルと言い、生まれたときに決められた性別と性自認が一致しない人をトランスジェンダーと言う。その頭文字をとったものがLGBTになる。
恋愛と性愛が一致しているとみなされることが多いけど、恋愛と性愛を分割して考える。性的なものはセクシャルとし、恋愛的なものをロマンティックと言う。
性的な行為をしない、性的な欲求がない人をアセクシャル、恋愛をしない人をアロマンティックと言う。性的な行為をせず、惹かれる人がいる場合で、異性に惹かれる場合はヘテロロマンティックと言える。
性別は帯状にたくさん存在している。男性、女性、男性から女性へ性別を変更した人、女性から男性へ性別を変更した人、女性と男性の間、どちらでもない人、性別はない人、揺れている、その他、人によってちがう。
どの性別の人にも惹かれる場合はパンセクシャル、性的には惹かれないけど恋愛をするときはパンロマンティックと言う。
一対一で恋愛する関係をモノアモリー、一対一ではなく複数のときはポリアモリーと言う。
性別や性的指向性自認を巡る概念や言葉はもっとたくさんあって、私は勉強不足だからよくわかっていないことのほうが多い。ここに書いたことも間違っているかもしれないし、人や国や時代によって言葉の意味が違うかもしれない。

自分を言い表すぴったりの言葉はないかもしれないけど、いくつかの言葉を見比べて、自分の感覚に近いものを探す手掛かりにはなると思う。
自分が何者か、ということは自分で決めることだから、他人が勝手に決めるものではないと思う。

愛情全てがこのアニメで示されているから、どんな愛情だって存在している。だから愛情の中でどれかひとつのみしか存在しないと言うことはしないけど、だからといって、愛情の中のひとつは絶対にないと言うことも違う気がする。

私は10話のバンケットのヴィクトルを見て、ヴィクトルは勇利が好きになった瞬間を見たと思ったし、それは私個人の感想であって、他の人の感想は知らない。

名前のない関係という言葉がその言葉通りに伝わるためにはあと何年必要なんだろうと思う。
異性愛のみこの世界の存在するという考えが大半を占める社会では、異性愛以外の考え方が存在しない。だから、異性愛以外のものに名前を付けて、その名前を使って抗議をする。それから、自分がどういう人間が知るために、たくさんの名前を調べて、この概念に近い、この概念からは遠い、と試行錯誤をする。
試行錯誤していると、ぴったり当てはまる概念がないかもしれない。感情や感覚は白黒はっきりできるものじゃない。どこか広い空間を漂ってふわふわと揺れ動くものみたいだ。つかみどころがなくて、よくわからないもの。

ヴィクトルと勇利が名前のない関係にある、と言ったときに、いまのこの社会では、それならその関係は恋愛じゃない、同性愛なんかじゃない、と否定される。それに腹が立つ。父も兄も友達も何もかも含めて名前のない関係と呼ぶなら、恋愛だってその中に入ってくるだろうと思う。同性愛を否定するために、名前のない関係という言葉を利用されたくない。

同時に恋愛だけが優先されるのも好きじゃない。愛情があっても人生は続くし譲れないものもあるし、話をしなければ何を考えているのか伝わらないし、愛情はエゴなので、片方が拒否すれば成り立たないし、強引に行けばただの暴力だし、そうでなくても、人間ふたりいれば力の不均衡が発生するし、難しい。

キスしてセックスをしても何も解決しないどころか問題をごまかすための手段として使われることもあるだろうから、恋愛だけではいやだと思う。

好きという感情が性的なものを含むかもしれないし、一対一のモノアモリーの関係で相手と人生を過ごしたいという感情かもしれないし、ただそばにいて欲しいという感情かもしれないし、相手と一緒にいると楽しいという感情かもしれないし、なんとなく気が合うという感情かもしれないし、好きという感情は人それぞれ違って、しかも人の中で無数にあって、その人自身もつかみきれないかもしれない。